先日、愛知県のJR東海道線で起きた出来事をご存じでしょうか。夕方の帰宅ラッシュが始まる時間帯、ある列車が停車すべき駅を通り過ぎてしまったというニュースです。
報道によると、原因は運転士の方が「他事(たごと)」を考えていたことによるブレーキ操作の遅れだそうです。この「他事」という言葉、あまり聞き慣れないかもしれませんが、要するに仕事とは関係のない別のことを考えていたということですね。
幸いなことにけが人は出ず、大きな事故には至りませんでした。しかし、ホームから60メートルも先まで行ってしまったという事実は、決して軽いものではありません。
このニュースを聞いて、皆さんはどう感じられましたか。「プロなのになんてことだ」と憤りを感じたでしょうか。それとも、「明日は我が身かもしれない」と背筋が凍る思いがしたでしょうか。
私はこのニュースに触れたとき、責める気持ちよりも先に、人間という生き物の「弱さ」と「愛おしさ」、そしてビジネスの現場にも通じる深い教訓を感じずにはいられませんでした。
今日はこの出来事を単なる鉄道のトラブルとして片付けるのではなく、私たちの日々の仕事やマネジメントに活かすための教材として、少し深く掘り下げてお話ししてみたいと思います。
まず注目したいのは、この運転士の方が28歳という、仕事にも慣れて油断が生じやすい年齢だったという点です。
入社して数年が経ち、基本的な操作は無意識レベルでできるようになっている時期でしょう。実は、ヒューマンエラーというのは、初心者の頃よりも、ある程度仕事に習熟したこの時期にこそ多発する傾向があります。
脳科学の視点から見ると、人間は慣れた作業を行う際、脳のエネルギー消費を抑えるために「自動操縦モード」のような状態に入ります。これは効率的に仕事をするための脳の素晴らしい機能なのですが、同時に大きなリスクも孕んでいるのです。
この自動操縦モードのときに、ふとプライベートな悩みや、明日の予定、あるいは昨日の失敗などが頭をよぎると、意識のスイッチが完全に「今、ここ」から離れてしまいます。
これを私たちは「マインドワンダリング(心の迷走)」と呼ぶことがあります。
皆さんも経験がありませんか。重要な会議中にふと晩ご飯の献立を考えてしまったり、大切なメールを作成している最中に別の案件の不安が頭をよぎって添付ファイルを忘れてしまったり。
今回のオーバーランは、物理的に列車が通り過ぎたという目に見える形でしたが、私たちのオフィスワークの中でも、目に見えない「オーバーラン」は日々起きているのです。
だからこそ、この運転士の方を単に「たるんでいる」と切り捨てることは、私にはどうしてもできません。むしろ、人間なら誰にでも起こりうる脳の仕組みのエラーが、たまたま多くの人の目に触れる形で現れてしまっただけなのだと思うのです。
次に考えたいのは、組織としての対応についてです。JR側は「指導を徹底して再発防止に努める」とコメントしています。
もちろん、企業としてまずは謝罪し、教育を強化するという姿勢を示すことは不可欠です。しかし、ビジネスの現場でリーダーを務める皆さんなら、この「指導を徹底する」という言葉の限界もまた、よくご存じではないでしょうか。
人間の注意力や精神力だけに頼る対策には、必ず限界が訪れます。
「気をつけなさい」「集中しなさい」と何度言ったところで、人間の脳の構造が変わるわけではありません。むしろ、精神的なプレッシャーをかけすぎると、脳は委縮し、視野が狭くなり、かえってミスを誘発しやすくなることさえあるのです。
もし皆さんが部下のミスに直面したとき、反射的に「気合いが足りない」と叱責してしまってはいないでしょうか。
本当に必要なのは、個人の資質を問うことではなく、「なぜそのミスが起きたのか」「どうすれば意志の力を使わずにミスを防げるか」という仕組みの部分に目を向けることです。
例えば、今回のケースであれば、運転士が考え事をしていたとしても、定位置で停車できるように支援するシステムが十分に機能していたか、あるいは運転士の疲労管理は適切だったかなど、検証すべき点は多岐にわたります。
ビジネスの世界でも同じです。ミスをした部下を個室に呼んで説教をする時間があるならば、その時間を使って「ダブルチェックのフローを見直す」や「システムでアラートが出るように設定する」といった、具体的な環境整備を行う方が、はるかに建設的で生産的です。
人を責めずに、仕組みを責める。これこそが、賢明なリーダーが持つべきマインドセットです。
さて、話を運転士の方個人に戻しましょう。彼はこの失敗の後、どれほどの自己嫌悪に陥ったことでしょうか。40人の乗客に迷惑をかけ、会社に損害を与え、ニュースで全国に報じられてしまったのです。
しかし、ビジネスパーソンにとって最も大切な能力の一つは、失敗しないことではなく、失敗した後にどう立ち直るか、つまり「レジリエンス(回復力)」です。
ミスをしてしまった直後の人間の心理状態は、パニックと自責の念で一杯になります。視野は極端に狭くなり、冷静な判断ができなくなります。
記事によれば、この列車は次の駅で臨時停車し、乗客はそこで乗り換えて戻ったとのことです。事後の対応としては、これが精一杯の最善策だったのでしょう。
私たちも仕事で大きなミスをしたとき、まずは深呼吸をして、現状を把握し、被害を最小限に抑えるための行動をとらなくてはなりません。
過去は変えられませんが、その後の行動で、その失敗の意味を変えることはできるのです。
この運転士の方には、今回の失敗を糧にして、より安全意識の高い、素晴らしいプロフェッショナルへと成長してほしいと心から願います。
そして、周囲の人間もまた、一度の失敗でその人の全てを否定するようなことはしてはいけません。誰にでも「他事」を考えてしまう瞬間はあるのですから。
ここで少し視点を変えて、私たち自身の「他事」について考えてみましょう。
皆さんが仕事中に「他事」を考えてしまうときは、どんなときでしょうか。多くの場合、それは心身の疲労がピークに達しているサインか、あるいは現状に対する漠然とした不安があるときではないでしょうか。
集中力が続かないというのは、あなたの能力が低いからではなく、脳が「休みたい」と叫んでいる合図かもしれません。
真面目な方ほど、集中できない自分を責めてしまいがちです。「もっと頑張らなければ」「こんなことでへこたれてはいけない」と、自分自身に鞭を打ってしまうのです。
ですが、プロフェッショナルであるならば、自分のコンディションを客観的に把握し、適切な休息をとることもまた、重要な仕事の一部です。
もし部下がぼんやりしていたり、些細なミスを連発していたりするときは、「たるんでいるぞ」と声をかけるのではなく、「何か抱えていることはないか」「少し休憩をとったらどうか」と声をかけられる、そんな余裕のある上司でありたいものです。
今回のニュースは、私たちに「人間の不完全さ」を改めて突きつけました。
AIやテクノロジーがどれほど進化しても、最後の最後で判断し、行動するのは人間です。そして人間である以上、感情があり、体調があり、そして迷いがあります。
だからこそ、私たちは互いの不完全さを認め合い、カバーし合えるチームを作る必要があるのです。
完璧な人間など一人もいません。完璧な組織も存在しません。
大切なのは、過ちが起きたときに、それを隠蔽せず、個人の責任に押し付けず、チーム全体の学びとして共有できる「心理的安全性」の高い土壌を作ることです。
今日という一日が、皆さんにとって、そして皆さんの大切な部下や同僚にとって、少しでも働きやすく、互いを思いやれる一日となりますように。
たった一つのニュース記事からでも、私たちはこれだけ多くのことを学ぶことができます。
明日からの仕事の中で、ふと集中力が切れそうになったとき、あるいは誰かのミスに遭遇したとき、今日の話を少しだけ思い出してみてください。
「他事」を考えてしまう自分や他人を許し、そこからまた一つ、強く賢く立ち上がる。そんなしなやかな強さを、皆さんが発揮されることを信じています。
どうぞ、お体にはくれぐれも気をつけて。皆さんのご活躍を、心より応援しております。
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